ヘッドランプは必要ない。走り始めてから1時間。スタート時点ではうす暗く平面的だった周囲の景色。漸く立体感を伴うものとしてその姿を現し始めた。悴んでいた指先もすっかり温まった。気温は10度を超ただろう。太陽の光は未だ高い峰々に遮られ、コロブ・キャニオンの谷間には達していない。
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トレイルランニングランキング


先ほどから何度ため息をついただろうか。「はぁ~」、おそらく顔もにやけているだろう。「あ~気持ちいい」、今一度声に出す。一緒に走っている者がいれば、「うるさい、いい加減静かにしろよ」と怒られても致し方ないが、連れはいない。それどころか、周囲にはハイカーの姿さえ見えない。
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谷底へと向かうトレイルは緩い下りが続く

重ね着しているレイヤーを一枚脱ぐ。汗ばんだ体の表面が僅かな間だけ冷たい風を感じる。然し、その感覚もすぐに過去のものとなる。身体を包みこむ冷んやりとした空気が鼻腔を刺激し、体内に新鮮な空気を送り込む。体中の細胞が躍動しているのが、鼓動を通して伝わってくるようだ。ザイオンの絶景と言う外界の美しさから得られる喜び。そして、ドーパミンの作用か何だか分からないが、内から湧き出てくるような快感。久しぶりに心の底から走る喜びを感じる。最後にこれほど気持ちよく走ったのはいつだっただろうか。

モノクロ写真の様に、未だ色彩を伴わないザイオンの峰々。やがて圧倒的な迫力で立ち上がってくるだろう。ザイオンとは旧約聖書に登場する丘の名称で、「聖なる丘」あるいは「約束の地」を意味する。ザイオン国立公園の西側に位置するコロブ・キャニオン。過去に何度かこの地を訪れているが、谷間に足を踏み入れるのは初めてだ。間もなく、太陽の光を浴びて神々しく輝くザイオン・コロブの峰々を仰ぎ見る事となる。
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スタート直前の薄暗いトレイルヘッド。マウンテンライオンに注意の警告がある。

リーパス・トレイルヘッドを発ち、ラヴァーキン・クリーク・トレイルを6㌔ほど南下し谷底まで下る。その後、東に方向を変え、トレイルの名称となっているラヴァーキン川に沿ってさらに6㌔。分岐点を経て最初の目的地であるコロブ・アーチに立ち寄る。

その後、ラヴァーキン川沿いをさらに東に進み、トレイルの終点となるキャンプ13、ベアートラップ・キャニオンを目指す。距離にしてざっと20㌔、そこが折り返し地点となる。ヘッドランプは持参しているが、日没前にはスタート地点に戻る予定だ。

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峰の合間から顔を出した太陽

静寂に包まれたトレイル。時折、谷間に響き渡るのは、早起きのキツツキがトントンと小気味いいリズムで口ばしを木の幹に打ち付ける音。軽快に下り坂を駆け降りる。息は上がっていない。レイヤーを脱いだためか、パックを背負った背中以外、汗はかいていない。
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ザイオンの峰の間から太陽が姿を現す。大きな光の塊から射られる無数の矢が、地表の生き物にエネルギーを与える。力強く放たれた矢は、否が応でも私の体を貫き、ハイ状態にある私に更なるエネルギーを注入する。

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早く走る必要はない。否、無理に走り続ける必要さえない。谷底を流れるラヴァーキン川のせせらぎ、それに沿うように蛇行するシングルトラックのトレイル、四方を囲む新緑とその背後に聳え立つ赤い岩。足元だけを見て走るには、美し過ぎる絶景がそこにある。周囲の圧倒的な景色に感嘆の声を上げながら足を前に進める。時折立ち止まり、後方を振り返る。巨大な岩が自らの美しさを誇るかのようにそこに佇ずんでいる。帰路に堪能できるであろう後方の景色だが、陽が昇れば見える景色もおのずと変わる。楽しんでおくに越したことは無い。

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ラヴァーキン川を離れ1㌔ほど、ゴロゴロとした岩や倒木が散乱するトレイルを上った先に、コロブアーチのビューポインはあった。時刻は9時少し前。生い茂る木々の間からアーチが見える。その幅87.5m。世界で二番目の規模を誇るアーチと言われているが、距離が離れているせいか、今一つ規模感が掴めない。かつては世界第一位と言われていたが、その後の測量で一位の座をアーチーズ国立公園のランドスケープ・アーチに譲っている。

 

世界一位、二位かはさておき、視界の先に架かるアーチ。残念ながら今一つ迫力に欠ける。距離も然ることながら、その形状。更にはアーチ越しに背景の空が見えないのがその理由だと思われる。アーチーズ国立公園のデリケートアーチやダブルアーチに後塵を拝していることは多くが認めるところだろう。

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巨大なはずだが、どうも大きさがピンとこない(望遠で撮影)

ザイオン・トラバースと呼ばれるザイオン国立公園を縦断する、全長78㌔のルートがある。大のザイオン好きの私としては、一度は走ってみたいと思っている。所謂、バケットリストと言うやつだ。


ザイオンの西端から始まるラヴァーキン・クリーク・トレイル。コロブ・アーチへの分岐点の数百メートル先でホップ・バレー・トレイルと合流する。ホップ・バレーを南下するルートは、ワイルドキャット・キャニオン・トレイル、続いてウェストリム・トレイルを介して、多くの観光客が訪れるザイオン・キャニオンへと続く。その後、イーストリム・トレイルを経て東側のエントランスまで続く。まさにザイオンを東西に貫く縦断ルートだ。

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ザイオン国立公園の東側の景色(数年前に撮影)


今回のコロブ・キャニオン訪問はザイオン・トラバースの下見も兼ねている。ここまでルート表示、トレイルの整備状況、水補給場所などに気を配りながら走って来た。今のところ懸念材料はない。

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ホップ・バレー・トレイルへの分岐点


ホップ・バレー・トレイルへの分岐点を後にし、ラヴァーキン・クリーク・トレイルをさらに東へと向かう。分岐点以降、急にトレイルのコンディションが怪しくなってきた。ホップ・バレーを南下しザイオン・キャニオンへ抜けるハイカーは数多くいるが、ラヴァーキン・クリークをさらに奥へと進む者が少ないのは一目瞭然だ。草木が生い茂ったトレイル、平均台の様に横たわる倒木。障害物競走の様相を呈してきた。狭い谷間に陽光は届かない。

目指すは、ベアー・トラップ・キャニオンの奥に佇む高さ10㍍ほどの滝、ベアー・トラップ。直訳すれば、クマ捕獲用の罠。谷の奥でクマに出くわさないと良いのだが。山間部での行動の際には常時携行しているクマ除けのペッパースプレー。今回は荷物の軽量化のため持参していない。
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トレイルは谷の奥へと続くが分岐点を過ぎると急に荒れ出す

藪をかき分けて辿り着いたトレイルの終点キャンプ13。平地はテント2つ分くらいだろうか。その横には、一抱えもあるような石が円を描くように並べてある。一件、椅子の様に見えるが、そのうちの一つには小石が積んである。更に円の中心にも「椅子」が一つ。首をかしげずにはいられない。昨晩、密教の儀式でも行われたのだろうか・・・
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両側に聳え立つに崖に遮られ谷底に陽は届かない。ちょっと妙な石の配列。
 

キャンプ13の近くにある筈の滝が見つからない。草木に覆われたトレイルは更に細くなり、やがてそれも姿を消した。奥へと進む道はない。「クマ罠クリークの滝」は諦めるしかなさそうだ。

 

ラヴァーン・クリーク沿いのトレイルを西に向かって走る。ほんの1~2時間前に通ったばかりのルートではあるが、往路と帰路では目に映る景色は違う。頭上で輝く太陽は、コロブ渓谷の岩や木々に惜しげもなく光を降り注ぐ。川のせせらぎは変わることなく私の耳を楽しませてくれている。キツツキはいつの間には休憩時間に入ったようだ。
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往路ではほとんどその姿を見ることが無かったハイカー達。午後になり、だいぶ数が増えてきた。皆、一様に東に向かっている。単独行動のハイカーも多い。

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暫しの休憩、川の水は思いのほか冷たい。流れに30秒も足を浸していると、痛みのような感覚に襲われる。川岸に腰かけ、エナジーバーを頬張りながら、疲労した脚にアイシングを施す。冷た過ぎて長い間浸しておけないので、あまり効果は期待できないだろう。澄んだ水で顔を洗い、口に水を含む。飲み込みはしない。おそらくこの地特有のバクテリアが沢山いるだろう。フィルターでろ過するに越したことは無い。
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愛用の携帯用フィルター。冷えた川の水が美味い


僅かに西に傾き始めた太陽を全身に浴びながら走る。開けた場所で立ち止まり、自らの尻尾を追う犬の様にぐるりと一回りする。切り立ったレッドロックの峰々。その背後には雲一つない真っ青な空。絵画の様な景色に新緑が微妙な色合いを添える。
360度パノラマの美しさに感嘆のため息をつく。

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走ることはあくまでも手段であり、目的ではない。走ることによってより遠くへ、そしてより多くの自然に触れることが出来る。そこには驚きと感動に満ちた世界がある。
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走ることによって脳内で分泌されるエンドルフィン。鎮痛効果や高揚感が得られるため脳内麻薬とも呼ばれる。その作用によってだろうか、全てのものが輝きを増し、より一層美しく見える。疲れを感じることもない。「ランナーズハイ」。走る者だけが垣間見ることの出来る世界だ。

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見飽きることのない絶景トレイルが続く

走る目的は人それぞれだ。美味いビールを飲むために走る人もいる。目的はあくまでも「美味いビール」であり、走ることはそれを得るための手段。私自身はビールが無くても走る。とは言っても、あれば事のほか嬉しい。汗をかいた後のビールは格別だ、とことん美味い。残すところ数マイル。トレイルヘッドに駐車した車の中でキンキンに冷えたビールが待っている。

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トレイルヘッドの駐車場にてポテトチップをつまみに一杯。

念のためではあるが、アメリカでは(おそらく全ての州でだと思うが・・・)、飲酒運転自体は違法ではないという事を伝えておこう。血中アルコール濃度が
0.08%を下回っていればという条件付きだが。

午後3時、無事本日のゴールに辿り着いた。今日のところはライトビールを
2缶。麦酒でリフレッシュした後は、木陰でのんびり昼寝でもしてから次の目的地に向かうことにしよう。


By Nick D