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時計の針は午前四時を少し回ったあたりを指している。また目が覚めてしまった。4年ぶりの一時帰国中の日本。毎晩遅くまで旧友たちと酒を酌み交わしているが、時差ボケのためニワトリの様に、日の出とともに目が覚めてしまう。通常の生活においては、アラームをセットしなければ10時間だって眠り続けることが出来るというのに、何という事だろうか。

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東京都東村山市。この地で生まれ、23歳まで過ごした。梅雨が明けて猛暑の7月。夏時間を採用しているロサンゼルスとの時差は16時間。日本の午前4時、ロスではちょうど正午。睡眠時間は短いが寝覚めはすこぶるいい。早起きのお年寄りたちは、いつもこんな感じで目が覚めるのだろうか。

早起きは三文の徳と言うが、何もせずにボーッとしていては意味がない。徳を得るべく、そそくさとランニングの準備をする。

一昨日は、この地が生んだ国民的スター、志村けんの銅像を見に行った。滞在中の兄宅から西武線の東村山駅までは約2㎞。余談ではあるが、東村山駅の所在地は、東村山市本町二丁目。そう、東村山一丁目や東村山三丁目と言う住所は存在しないのだ。

 

駅前ロータリーには早くも仕事場へと向かう人たちの姿が見える。傍らには、アイ~ンのポーズをとる志村けんの銅像。台座には「多くの笑いと感動をありがとう」と刻まれている。銅像の前に立ち、汗で重みを増した帽子を脱ぎ目を閉じる。バカ殿に感動を貰った覚えはないなぁ、と思いつつ、たくさんの笑いへの礼を述べる。

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東村山市の名誉市民。多くの”感動”をありがとう!

平日の早朝、アイ~ンの銅像の前に立ち尽くす汗だくのオッサンがひとり。足早に駅へ向かう人たちの目には奇妙に映ることだろう。新井注のドリフターズ脱退を機に、志村けんがボーヤから正式メンバーとなったのは昭和
49年。苦労もあっただろうが、ずいぶん長い間頑張ったものだ。有名になった後でも、この地への愛着は深かったようで、駅前で姿を見掛ける事も少くなかった。海の向こうから久しぶりに訪ねて来たものの、アフター志村の東村山は、どことなく寂しい気がする。“変なおじさん”や“バカ殿”をみて大笑いした家族団らんの思い出は、彼のレガシーとして東村山音頭のリズムととも皆の心に残り続けることだろう。

東村山駅ロータリーを後にして向かった先は、狭山丘陵の南端。地元では八国山と呼ばれているエリア。正式名称かどうかがわからないが、昔から皆がそう呼んでいる。「となりのトトロ」の舞台のモデルとなっとた言われる場所だ。小学生の頃にはザリガニやおたまじゃくしを採りに来たものだ。その後、宅地化が進んで、かつてあった里山が姿を消したことは知っている。4年前、子供の頃の記憶を頼りにこの地を探索した。30数年振りの事だった。昔懐かしい神社やお地蔵様、そしてなんとなく見覚えのある小川に架かる橋はそこにあった。然し、迷路の様な細い道の両側には住宅が立ち並び、昔の面影はなかった。

 

今回も4年前同様に、住宅街でいくつもの行き止まりに立ちはだかれ、すっかり道に迷った末、雑木林の入り口に辿り着いた。やはり近くに田んぼは見当たらない。然しそこは、ヒンヤリとした空気と懐かしい時間に満ち溢れていた。木々が生い茂る小道に足を踏み入れる。汗をかいて火照った体を木漏れ日と緑色の風がやさしく包み込んでくれる・・・


と、思いきや体に纏わりつくのは沢山の虫、虫、虫。蚊だか何だかわからないが、小さな虫たちが襲い掛かってくる。それにしてもすごい数だ。大量の汗の匂いに誘われて寄って来たのに違いない。緑の木々に囲まれて昔懐かしい気持ちに浸る間もなく、一目散でトトロの森を後にした。

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多摩湖の堤防より。首長竜タマシーの姿は見えない

その翌日は、馴染みのサイクリングロードを走って村山貯水池へ行ってみた。東京都と埼玉県の境に位置し、西武園に隣接する緑地公園。そこにある貯水池は多摩湖の呼称で親しまれており、その昔はネス湖のネッシーならぬ、タマシーという首長竜のような生物が棲んでいるという噂があった(あくまでも子供たちの間での都市伝説)。

急こう配を登り切って堤防に着き、息を整える。辺りを見回すと、平日の早朝とあってか、そこは元気な爺・婆のたまり場だ。首に巻いた手拭いで汗を拭いながら、周りの人たちと楽しそうに談笑している。軽いストレッチをしながら、普段見慣れない光景を微笑ましく眺めていると、地元の中学生か高校生と思われる集団が目に入った。おそらく部活のトレーニングだろう。元気よく走る姿が眩しい。僕にもああいう時代があったなぁ、と後姿をすがすがし気もちで見送る。残されたジジババを見渡しながら、「あの学生たちから見れば、僕もこのジジババと一緒なんだろうなぁ」と、時の流れを否が応でも感じさせられるとともに、一抹の寂しさが胸をよぎった。

 

近くにいた老人に声を掛けてみた(既にこの行為がジジババの一部と化している)。話の流れで、ロサンゼルスから来たことを伝えると、「そーですか、うちの娘はメキシコに住んでいるんですよ」、との事。色々聞いている内に、その昔家族ぐるみでお世話になったNさんの親戚である事が分かった。なんという偶然だろう。

その老人、娘に伝えたいと僕の名前を聞くが、「メモ用紙がないからなぁ~」と不安そう。結局、数分間の会話中に僕の名前を3回聞いたが、おそらく娘さんに伝わったのは、「先日多摩湖の畔で、あんたの知り合いに会ったよ。名前は何だったっけなぁ」、と言ったところだろう。
N家の人たちは、それが誰であるかを知る術はない。もしかすると、老人は僕の名前を忘れたことを家族から責められたり、ボケただの言われているかもしれない。あの気のいい老人のためにも、近いうちにSNSで探してNさんと連絡を取ってみることにしよう。

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両岸に草が生い茂る空堀川。早い梅雨明けのせいか水量が少ない

そして今日。昨日、一昨日に次いで、また午前4時過ぎに目が覚めた。のんびりと着替え、少しばかりカロリー摂取して
445分。ランニングシューズを履き外に出る。幸い空は雲に覆われている。今日は何処を走ろうか。記憶のページをめくる。よし、先ずは小学校へ行ってみよう、そして中学校を目指そう。頭の中で地図を辿ってみるが、上手くルートが組み立てられない。走り始めれば何とかなるだろう。

 

僕が6年間通った小学校は空堀川という小さな川沿いにある。今でもそこに存在しているので過去形ではない。しかし、様子は当時と様変わりしている。子供の頃の空堀川の記憶はと言うと、川底と両岸をコンクリートで固められた幅の狭い川。いつもゴミがたくさん浮いる汚い川。大雨が降るたびに増水し、濁流が橋げたの近くまで来る危ない川、と言うものだ。

今では、かつて川の両岸にあった家や商店は姿を消し、幅は3倍以上になっている。拡張された両岸には植物が生い茂り、本来あるべき自然の姿を取り戻している。サギのような鳥の姿が見える。流れには小魚は勿論のこと、鯉のような大きな魚もいるようだ。

川沿いの道は今でも小学生の通学路となっているらしい。雑木林の一部だったと思われるところが、サイクリングロードの様な整備の行き届いた歩行者・自転車専用道になっている。朝早いため子供たちの姿はない。その昔、秋の台風シーズンには、午後の授業を切り上げて集団下校となる事も珍しくなかった。子供たちにとっては、楽しいイベントのようなものだったが、もう川が氾濫することもないだろう。

このかつてのゴミだらけの氾濫危険河川、僕にとっては思いで深いものだ。当時の悪友、近所の商店街の肉屋の次男坊M君と、お茶屋の長男坊K君。3人で毎日仲良く通学していた。通学路にある川は絶好の遊び場だ。三人揃うと、先ずはゴミ箱から空き缶や瓶をそれぞれが拾い準備完了。じゃんけんで負けた者は大きめの瓶があてがわれる。それらを川に流し、ゴールである学校脇の橋まで競争をする。

川岸から石を投げ相手の船(瓶や缶)を攻撃する。流れは一定ではない。渦巻で船が前に進まないこともある。船が渦に吸い込まれると「ヤバい、血迷いコースだ」(何故か彷徨いではなく、血迷いだった)と、救出のために大きな石やゴミを投げ込む。ゴミを川に流して遊ぶとは、今日的にはとんでもない事であるが、昭和
40年代とはそんな時代だった。(今ではその罪滅ぼしに、ランニングしながら自主的にゴミ拾いをしているので、当時の行いは見逃してもらいたい)

当然、船が流れに乗って順調に進むことは殆ど無く、毎日遅刻。小学生にして早くも落ちこぼれ街道まっしぐら。とは言うものの、当時は先生も今とは比較にならないほど寛容だった。ゴミに対するお咎めは無く、「あんた達、いつも遅刻ばっかりしてしょうがないわねェ!川にゴミを流して遊びたいなら帰り道にしなさい!」と。そこで、「帰り道は流れが逆なんで、ダメなんだよ~」と切り返すと、止めなさいと怒るわけでもない。挙句の果ては、「それじゃ、もう少し家を早くでなさい!」という始末。なんと和やかな時代だろうか。

 

あれから、半世紀近く。視界の先には、すっかり小さくなってしまった(ように見える)校庭が何かを語り掛けるように佇んでいる。学校のすぐ隣にあり下校時に遊びに行ったS君宅は、川幅拡張に伴い引っ越しをしたようだ。一方で少し先には、未だに懐かしい表札が掲げられている家もある。

 

途切れ途切れになった過去の記憶を紡ぎながら走る。時折、自分の居場所がわからなくなる。やがて懐かしい記憶の断片が合わさる様に、記憶の中の道と現実のそれとが繋がる。

中学校の校舎が見えてきた。古くはなっているが、不思議と小学校で感じたような違和感はない。ふっと、ユーミンの「卒業写真」のメロディーが頭に浮かぶ。と言うか、思い出に浸りたくて自ら口ずさんだと言うべきだろう。

坂を下る。栗林はまだある。細い道の反対側、梨の木はキウイフルーツに取って代わったが、未だに畑は残っている。このあたりは確か同級生の女の子の家族の畑だった。

ここが僕の故郷か。今更ではあるが、ついそんなことを考える。生まれ育って23年間を過ごしたこの地が僕のルーツだ。アメリカ生活も通算で17年を超えた。メキシコには14年暮らした。その前は南米に2年。様々な地で暮らし、様々な人たちと触れ合ってきた。「帰る場所はどこ?」と尋ねられると答えに窮する。日本だろうか、メキシコだろうか?

かつて缶蹴り遊びをした公園はもうない。生まれ育った2階建ての都営住宅は取り壊され、高層住宅へと姿を変えた。賑わっていた商店街。店が数件しかない通りを“商店街“と呼ぶ者は、もう恐らくいないだろう。

 

そこに佇むのは昔懐かしい風景かもしれない。あるいは変わり果ててしまったかつての遊び場かもしれない。只、この地、そしてここでの20年余りの生活・経験が、今ある僕と言う人間を形作ったのは間違いない。家族がいる。親しい友人たちがいる。おそらく、故郷(ふるさと)とはそういうものなのだろう。

いつの間にか、薄っすらと空を覆っていた雲は姿を消した。東の空で未だ低空飛行しながら遠慮気味に熱を放っている太陽。本領を発揮するのはもう少し後だろう。ただ、湿度の高い気候に慣れていない僕的には、既に不快指数は200%を超えている。汗が帽子のつばから滴り落ちる。今や熱帯と化した日本の夏。それもそっくり含めての故郷だ。慣れるしかない。

故郷とは、帰ることの出来る場所のことだろう。然し、それが帰るべき場所とは限らない。「僕の帰るところは何処なんだろう?」。汗を滴らせながら走り、そして考える。

「僕は何処へ向かっているのだろう?」。全身に纏わりつく湿度の高い風は何も語りかけてこない。答えはあるのだろうか。そうだ、明朝また多摩湖に行って、畔に集う賢人たち、爺・婆に問うてみよう!


By Nick D