ヘッドランプが照らし出す小さなエリアだけを、長時間に渡って見ていると、光が当たる部分が、実在する世界の全てである様な錯覚に襲われる。ゆっくりと前に足を進めると、周りにある小さな世界が自分と一緒に移動して来るような、不思議な感覚だ。

左腕のガーミンは、スタートしてから
24時間以上が経過しているが、まだ、正確に時を刻んでいる。丸一日走っていれば、様々なものが日常と違うものとして見えても不思議ではない。その感覚は、例えるなら夜のダイビングだろうか。ダイビングライトの光だけを頼りに夜の海に潜る。光が届くエリアだけが、ダイバーにとっての世界である。レギュレーターから吐き出される空気の泡が無ければ、上下の感覚も怪しくなる。さすがに走っている間は、躓いてゴロゴロと転がらない限りは、上下の感覚を失う事は無い。幸い、今のところ、そこまでの状態にはなっていない。

第1話「山の精霊の巻」はこちらから

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時刻は2日目の午前5時を回っている。もう一時間もすれば、2度目の朝を迎えることになる。沈んだ太陽は、誰に望まれなくても、いずれまた昇って来る。朝日をこれほど待ち望んだことが過去にあっただろうか。

長時間のトレイルでは空間の感覚同様に、時間の感覚も麻痺してくる。止まらずに、足を一歩づつ前に出すことだけに気持ちを集中させてきた。ルートが闇に包まれてから、何人ものランナーと会った。殆どは、挨拶を交わし、手短かな会話をする程度である。やがて一人になり、暫くすると、また別のランナーに遭う。殆どは一人で走っている時間であるが、その間の感覚は極めて曖昧だ。全てが僅か23時間の出来事のような気もする。逆に川沿いのトレイルで夕暮れを迎えたのが、何日も前だったような気もする。
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(ルートは中盤に急こう配の登りと、それに続く下りが無数にある。終盤は小さなアップダウンの繰り返しとなる)


途中、ルートを外れて道に迷った。暗闇で味わった不安と絶望感は、生涯忘れる事は無いだろう。元のルートに戻るのに、
23マイル余分に走った。その甲斐あってか、幸運にも山の精霊、マウンテン・ライオンに遭った。「幸運」と言えるのは、無事に生還できたからこそだ。あれから、3時間が経過している。途中のエイドステーションでは、ボランティアが温かく迎えてくれた。
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(道に迷ってから最初に会う人たち。旧知の友の様に温かく迎えてくれた)

曖昧な感覚が、暗闇の作用によるものか、あるいは疲労によるものかは定かでない。山の闇は深い。当然、景色と呼べるものは無い。ランプが照らし出す足元と、その先の僅か数メートルが、目にする世界の全てだ。転ばぬように注意しながら足を動かし続ける。水分補給をコマめにする。30分ごとに栄養補給を摂る。この単純作業を数時間にわたって繰り返す。時に、電源の入っていないテレビの前で、じっと画面を見つめている様な気分になる。時間の感覚を失うのも、当然と言えば当然だろう。
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疲労は限界に達している筈だが、不思議と自覚症状は無い。眠気もない。レースに備えて様々なトレーニングをしてきた。眠気対策の一環で、午後
11過ぎから翌朝まで、自宅付近を走り続けたこともある。


前方に見覚えのあるランナーの姿を見つけた。特に意識していたわけではないが、レース序盤より、幾度となく抜いたり、抜かれたりしている。最後に見たのは、まだ明るい時刻。調子が良いとは言い難い状態だった。トレイル脇で吐いていたように見えた。今はペイサーに何とか着いて行ってるという感じだ。おそらくボランティアのペイサーだろう。ランナーに付き添っているペーサーがボランティアかどうかは、端から見ていても何となく分かる。

友人同士の場合は言葉少なく、黙々と走っている場合が多い。一方、ボランティアの場合は、見知らぬランナーのペーサーを買って出るくらいなので、社交的で世話好きな人が多いのだろう。ひたすら喋りながら前を走るペーサー、その後を無言で着いていくランナー。これがお決まりのパターン。たった今、前を走っているランナーも疲労困憊で、相槌を打つのも辛そうだ。(ボランティアのペーサーには誠に申し訳ないが、)もういい加減黙っていてくれと、後姿が叫んでいるように見える。気持ちが落ち込んでいるロー状態ではそんなものだろう。敢えてペーサーなしで今回のレースに挑んだ、自分の判断が正しかったと思えた一瞬であった。

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(ゴール地点では113マイルを表示するガーミン・フェニックス)

左腕のガーミンの距離表示は、すでに
100マイルを超えている。GPS機能が当てにならないのは、今に始まったことではない。ゴールまでの距離は、おそらく10マイル(16㎞)程度だろう。30時間のタイムリミットまでに残された時間は約4時間。右ひざの痛みは針を刺すような刺激に変わっている。時間は充分にあるが、気は抜けない。幅の狭いトレイルは、右側が山の斜面、左は切り立った崖だ。長い夜を終え、無事に朝を迎えるためには、足元だけに意識を集中させる必要がある。

先ほどまで闇に包まれていた、フォルソム湖と、その向こうに連なる山々が一瞬見えた気がした。目を凝らすと、山々は姿を消した。暗闇では、視界の隅に捉えたものが、敢えて目を凝らすと見えなくなる事がある。光と形状を認識する機能が、それぞれ眼球内側の異なった部分にあるためだと聞いたことがある。


山々は決して幻ではない。あと数分もすれば、朝日に映し出され、そのシルエットが、はっきりと見えて来ることだろう。漸くここまで来た。昨日の午前
5時にスタートし、一度目の朝を期待と不安とともに迎えた。その後、ボランティアやランナー達に励まされながら、疲れた脳をだまし、膝の痛みをこらえて、一昼夜ひたすら走り続けた。


山々のシルエットが影絵のように浮き上がってきた。幻ではない。しばし立ち止まり、曙の空を楽しもう。オレンジと紫のグラデーションが空を覆う。刻一刻と変わる色彩の変化を一時も見逃したくない。疲れた目を見開く。これほどまでに、朝の訪れを心待ちにし、太陽の光を愛おしく感じたことが、嘗てあっただろうか。朝焼けに映えるフォルソム湖が言葉にできないほど美しい。
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(待ち望んだ夜明け。息をのむほど美しい)

昇る太陽に励まされ、疲労感は一気に吹っ飛び、右膝の痛みも忘れて・・・と、言いたいところではあるが、現実はそれほど甘くない。気持は高揚し、鼻歌交じりではあるが、ペースは相変わらず遅い。膝も痛い。


96マイル(153㎞)地点。今回のレースで最後のエイドステーションとなるのは、昨日ハロウィンの飾りつけでランナーにHappyを振舞ていた、グラナイト・ビーチ。駐車場に近づくと、一人の女性ボランティアが、「Oh, It’s you ! Welcome back!」と、とびきりの笑顔とハグで迎えてくれた。24時間以上前に会ったランナー全員の顔を覚えているとは思えないが、心からの祝福であることに間違いない。昼夜走り通して、汗と泥で小汚い見知らぬランナーをハグするのは容易なことではない。熱いものが込み上げてくる。

水も食料も十分にある。最後のエイド・ステーションは、ボランティアに手を振りながら、心からのお礼を述べ、素通りした。残り僅か数キロ。全力を出し切るのみだ。まだ、超えるべき山が前方にある。

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(28時間40分。痛みを堪えて涙のゴール)

数年前には想像すらできなかった、
100マイルという途方もない距離。完全なる未知の領域だった。本格的にレースの準備に入ったのは半年前。それからの6カ月間は、無我夢中でトレーニングに励み、やるべき事はすべてやった。ゴールが堤防の先に見えてきた。最後は、持てる力を全てを出す。痛みに耐えながら、ひたすら走る。緑色のアーチが間近に迫ってきた。自分自身に問い掛ける、「Getting closer to the man I wanna be ?


ゴールの後ろで、大声で叫びながら手を振る妻の姿が見える。


by Nick D