1992年当時、私はジョージア州アトランタから南米コロンビアに住まいを移し、標高約2600mのアンデスの高地にある首都ボゴタで、学生として過ごしていました。1623年に設立されたハベリアナ大学という由緒ある大学に籍を置き、その間ビザの関係もあり隣国のエクアドールに足を運ぶこと数回。
 

にほんブログ村 旅行ブログ アメリカ旅行へ
にほんブログ村 
 

一年間を過ごし一区切りついたところで、今度はエクアドールの首都キトにある大学に編入。キトは、ボゴタより更に標高が高く、町の中心部は2800mほど。街を囲む丘は3000mを超える高さ。
7A33F43E-3CA2-429B-B0AA-997425C7A330
(高台からのキトの街の眺め。茶色い屋根の部分が旧市街、後方の白っぽい高層の建物は新市街)

エクアドールでは当時、スクレという通貨が使われており、物価が極端に安くヨーロッパからのバックパッカーのゲートウェイとして賑わっていました。ここで先ずはスペイン語のいろはを学び、その後、中南米の旅に出るのがお決まりのパターン。目抜き通りのカフェやバーは外国人の溜まり場となっていました。特にドイツ人、イギリス人、オーストラリア人が多かったと記憶しています。それほど人数は多くないながら目立っていたのは、兵役を終えたばかりのイスラエル人。日本人の大学生の多くが卒業旅行をするように、当時のイスラエル人の若者の間では兵役終了旅行が流行っていた様です。皆一様に、全身を覆い隠すほどバカでかいバックパックを背負っていました。
F807B745-5122-4BB3-80BA-7118FE75C99D
(今でも新札同様で持っているスクレ札。2000年以降は流通していない。1千スクレのインディへナは若かりし頃のシュワルッツネッガーにどこか似ている)

私はと言うと、そんな街でシャワー・トイレ共同の安ホテルを定宿とし、大学に通う傍ら、入れ替わり、立ち代りするバックパッカー連中と楽しく過ごしていました。
一日の生活費は、1万スクレ前後。かなりの金額に聞こえますが、米ドル換算では何と$5㌦程度。宿泊費が一日約$2㌦。それを差し引いても残りの$2~3㌦で、何とか食事をし、夜にはビリヤードをしながらビールを飲む余裕も。


因みにエクアドールでは、2000年に自国通貨のスクレを廃止して米ドルを通貨として導入。その後、物価は急激に上がり、ヨーロッパからの観光客は激減してしまいました。2004年に出張でキトに行く機会があったのですが、当時の面影は無く、街にはバックパッカーの姿は見当たりませんでした。懐かしい光景を期待していただけに、とてもガッカリしたのをよく覚えています。
10A3E577-7058-4E72-B931-44D0241AE53A
(コロニアル時代の面影を色濃く残すキトの旧市街の町並み)


様々な国からのバックパッカーが入り浸る安宿は、ユネスコの重要文化財に指定された旧市街のちょっと外に位置し、旧市街と新市街の中間にあり絶好の立地。屋上は洗濯や物干し利用と合わせて、日光浴が出来る社交の場。滞在が長くなると、オーナーと交渉して、空き部屋が出るたびに、だんだんと良い部屋に移動していくことができる仕組み。長期滞在していた私は、僅か4部屋しかない屋上のペントハウスのような「最上級」の部屋をゲット。最上級と言っても、3畳程度の部屋にベッドと机があるだけ。それでも眺めの良い屋上で、目の前はシャワールーム。当時としては極めて贅沢で、皆が羨むスイートルームといったところ。
3F946204-9281-4A70-A63B-805A936A0BE8
(ペントハウスの部屋にて。屋上で知り合い、その後良く一緒に飲みに出掛けたバックパッカー仲間)

屋上やバーでの話の中心は、お勧め宿や治安に関する情報交換と合わせて、これまで訪問した場所の感動話や、今後の行き先の相談。人気ナンバーワンは、何と言ってもガラパゴス諸島。次いで、マチュピチュなどで知られるペルーのアンデス高地。ガラパゴスは当時、エクアドールの外貨獲得の貴重な観光資源だったので、外国人観光客にはかなり高い料金が設定されていました。私は現地で大学に通っていたので幸い、エクアドール人料金で行くことができたのですが、それでも一週間の旅でペルーで一ヶ月以上過ごせるとほどの額。
6D7A3383-B507-41A7-B753-F9C84D127F19
(エクアドール第三の都市、クエンカの街角にて) 

 

貧乏旅行の予算では、ガラパゴスとアンデス両方へ行く余裕は無く、散々迷った結果、アンデス行きを決断。低予算で長旅をモットーとするバックパッカーとして、当然の選択だったのですが、今考えると借金をしてでもガラパゴスへも行っておけば良かったと・・・30年近く経った今でも思い返して悔やむ事があります。
97A7C320-A5CC-4DB3-8D10-626F2C7F9C28
キトの郊外にある赤道モミュメント。エクアドールとはスペイン語で赤道を意味する。モニュメントは実際には赤道から少し外れているらしい)


先ずは大学での勉強を一通り終わらせ、その後、心待ちにしていたペルーへ向かいます。
当時のペルーはフジモリ大統領政権下。山間部ではセンデロ・ルミノソ(輝ける道)と呼ばれるゲリラ組織がテロ活動を繰り返していた時期で治安は最悪。偶々、宿の屋上で知り合ったオランダ人で、一人旅をしていたミルシャと意気投合しペルーの旅を一緒にすることに。彼女はエクアドール国内を廻ってからペルー入りを予定していたため、既に同国内の見所は廻っていた私とは日程が合わず、一足先にキトを発ち国境の町で落ち合う事となりました。
4FA5BA9C-EB8A-478B-9062-933D19386A71
(キトに住むペルー人の友人と旧市街地にて。リマでは彼女の両親宅でお世話になる)

時間はいくらでもあるので、宿泊ホテルと大まかな到着予定日だけ決め、後は早く着いた方が待つといういい加減なプラン。当時は携帯電話もインターネットも存在しないので、待ち合わせ場所で会えなければ、その時は致し方なし。
805AEC23-B07E-4C4D-85DD-D1531CF4F5E8
(キトの街の中心部にあるサンフランシスコ教会)

出発前に治安の悪いペルーでの盗難対策として、ズボンの裾の内側にパスポートやトラベラーズチェックを仕舞うための隠しポケットを縫い付け、一路国境の街に。バスを乗り継ぎ
20時間。国境の町の待ち合わせ場所のホテルに着くと、約束どおりミルシャが数日前に入り、私の到着を待っていました。さて、明日はいよいよ歩いて国境を渡りペールへ。

これまでも、アメリカやコロンビアでの生活を通して様々なものを見てきましたが、これから訪れるアンデスの高地では、これまでの価値観を大きく覆す様々な経験をする事になります。

 

ペルー・インカトレイルを始めとするアンデスの旅はこちらからどうぞ。

http://nick-d.blog.jp/archives/13524786.html


4ヶ月間のアンデス高地の旅を経て、また例の安宿に戻ってきました。
残念ながらペントハウスは先客がいたため、また陽の当たらない下の階からやり直し。暫く旅の疲れを癒して、いざコロンビアに帰ろうと思いきや、入ってきたニュースは、なんと原住民による国境封鎖。これにより暫く足止めを食らうことに。

52BEC96B-CB1D-43E1-A2D7-D30D3268ABEA
(バスに乗り合わせ、その後、ピックアップトラックの荷台で一緒に移動したインディヘナの女性たち。ピックアップの荷台にいる私にさよならの微笑を投げかけてくれた)

今回の投稿で4つ目となる1992年南米シリーズ。敢えてタイトルに1992年を記しているのには理由があります。実はこの年が1492年コロンブスのアメリカ大陸発見から500周年。大陸発見の記念日は1012日。米国ではコロンブスの日と呼ばれている記念日も(現在では正式名称を原住民の日などと変えている州もある)、中南米の多くの国では、征服者が来た忌まわしい日として、原住民の日を意味する名称で呼ばれるのが一般的。
09A824DE-2AB6-4ED5-ADD5-F5035331B6BB
(インディヘナの人々が民芸品を持って集うオタバローの市場。当時、行動を共にしていたデンマーク人。事故で無くした片手を苦にせずプロ並みの写真をとる)

エクアドールで貧困に喘ぐインディヘナ(原住民)たちが、敢えてこの日を選び蜂起し、各地でデモや国境封鎖を行いました。他の中南米の国々でも時を同じくして、様々なデモや蜂起が起こっています。エクアドールでは軍隊との多少の衝突はあったものの、幸い大きな武力行使には至らず終結しましたが、
国境封鎖は延々と一ヶ月余りも続きました。陸路でコロンビアへ帰る予定だった私は、出発の目処が付かず。その間、仕方なく延泊を繰り返すうちに再度、ペントハウスに上り詰める事に!やっぱり、ペントハウス暮らしは止められない!

ワンポイント・アドヴァイス 

貧乏旅行の薦め
ここ数年、日本からの海外留学生の数が著しく減っているという話しを頻繁に耳にします。おそらく、時間に縛られず気ままな旅を味わうバックパッカーの数も激減している事と思います。日本の生活が快適なため、わざわざ苦労しに海外に行く理由は無いという事でしょうか?月並みですが、異なる文化に触れることは、人生豊かにするまたとないチャンス。最近の風潮はとても残念な気がします。金銭的に余裕があれば、それに越したことはありませんが、低予算でも異国の文化に触れ、有意義な時間を過ごす方法はいくらでもあります。逆に低予算で長居する事によってのみ得られる貴重な経験も多くあります。現地の人と同じものを食べ、ローカルバスで移動をして、その土地の人と触れ合って・・・低予算で長期滞在するために大事なことは、最低限必要な出費を把握すること。私の場合は一日$5㌦あれば生活できることが分かっていましたので、国境封鎖も気にならず、のんびり宿にあったフレデリック・フォーサイスのスパイ小説を読んで過ごしでいました。

この後、コロンビアに戻って、暫くカリブ海沿岸で過ごす事になるのですが、このフレデリック・フォーサイスが災いをもたらすことに・・・

続きはこちらから:
http://nick-d.blog.jp/archives/16734098.html

By Nick D