1992年冬、隣国のエクアドールから陸路でペルー入りしてから約一ヶ月。バスや高山鉄道を乗り継いで、漸くかつてのインカ帝国の首都クスコに到着。その間、一緒に旅をしていた友人がリマで誘拐されそうになったり、ナスカで食あたりで死にそうになったり、アレキパで寄生虫に皮膚を食い荒らされたり、色々ハプニングはありながらも、無事ここまで辿り着いた。

標高3400mのアンデスの高地にあるクスコ。日中の日差しは強いが、朝晩は零度近くまで冷え込む。7月であるが南半球に位置するペルーは今が冬。寒さは堪えるがこの時期、雨は少ない。当時のペルーはフジモリ大統領政権。治安は麻薬とゲリラで悪名高いコロンビアと並ぶ悪さ。一般犯罪と合わせて、山間部ではセンデロルミノソ(輝ける道)と称するゲリラがテロ行為を繰り返していた。バックパッカーの間では、インカトレイルでドイツ人が殺され、木に吊るされていた等、真実のほどは分からない噂が多く流れていた。これから、そのインカトレイルを経てマチュピチュへと向かう。不安と期待が入り混じったインカの歴史を辿る旅の最終章が始まる・・・

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(1992年当時のクスコ中心部の広場。)
 

もう四半世紀も前のことになりますが、今思い返せば、随分と親不孝をしたものです。
1990年代の始め、私は南米大陸にいました。コロンビアでの1年間の留学をひとまず終えて、エクアドールの首都キトの大学に一学期通い、その後、小さなバックパックを背負いペルーへの旅に出ました。移動は全て陸路。それ以前にも、コロンビア国内、エクアドール、ブラジル、アルゼンチンなど広大な南米大陸を陸路で旅をしていたため、10時間程度の窮屈なバス移動も慣れたもの。
多くの場合は宿泊費を節約するために夜間の移動。バスの中で眠り、早朝にターミナルに着くとトイレで歯を磨き、顔を洗って一日のスタート。
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(左手にはエクアドール国境から一緒に旅をしていたミルシャ、右手には頭髪が残る頭蓋骨)

当時のバックパッカーは、荷物が小さいのと、無駄な金は使わない事がクールとされていました。私もご他聞に漏れず、当然スマホもインターネットも無い時代のことですので、ガイドブックを片手に治安の悪い町の中心部の安宿を探し、全財産を背負いローカルバスを乗り継ぎ、怖いもの知らずで何処へでも。


放浪中は家族に連絡を取るわけでもなく。私が南米に滞在していた約
2年の間、日本との連絡方法はと言えば、一ヶ月に一度くらい送る絵葉書のみ。その間、日本の家族は消息はおろか、生きているか死んでいるかも分からない状況。今ではとても考えられませんが、当時はそれが当たり前と思っていました。身勝手なものです。
 

6月にペルー入りしてから約一ヶ月かけてクスコに辿り着いたわけですが、クスコ以前のエピソードは、エクアドールでの$5ドル生活、コロンビアで戦車に護衛されての長距離バス移動、ブラジルでの強盗襲撃など、思い返すと笑えない話もかなりありますが・・・それらは、またの機会に。

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(クスコの街角にて。インディヘナの女性の多くは未だに民族衣装をまとっているが、男性はなぜかジーパンにティーシャツといった今時の格好が多い。中南米では土着の民をインディヘナと呼ぶ。インディオと言う言葉は、差別的な意味を持つ場合が多いので要注意)

インカ帝国の首都クスコへも当然、陸路にて。世界で最も高いところを走る高山鉄道に乗って入りました。途中は、ほぼ全域単線のため擦れ違いで
1時間待ちもざら。三等車の客室は足を縛られたヤギや鶏も乗っている様な、なんでもありの地元の人の足。バックパックは盗まれないように、頭上の棚にワイヤー錠を掛けて保管。特に急ぐ旅でもなく、すれ違いの待ち時間はアンデスの山並みや、放牧されているリャマを眺めたりしてぼぅーと過ごします。

 

インカトレイルのトレッキングは、今では入山許可証の取得が非常に困難で、かなり前もっての予約が必要と聞きますが、当時は至って簡単。クスコ到着の翌日に町の中心にある広場に複数ある旅行会社の一つに行き、数日後のガイドを手配し準備完了。
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(サクサイワマン遺跡にてリャマを連れて歩く民族衣装の少女)

出発前の数日間は聖なる谷、オジャンタイタンボやサクサイワマンといった遺跡めぐり。更にはピサックの市場にて、数百年も前から同じ営みを続ける人たちの生活を垣間見たりと、好奇心を刺激するものには事欠きません。
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(ピッサックのマーケットで織物を売る女性たち。袋に入ったポテトも売り物)
 

多くのインカ帝国の遺跡は、フランシスコ・ピッサロ率いるスペインからの征服者に破壊されてしまいましたが、未だに街の随所に当時の石垣が残っています。インカ時代の礎の上に、スペイン様式の建築物が建てられている、歴史的に非常に稀な建造物が街の至るところで見られます。スペイン植民地時代に築かれた建物の多くは、その後の地震で大きな被害を受けたものの、インカ時代の石垣の多くは、びくともせず未だに原形を留めているものが多くあります。
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(クスコの町並み。下の部分はインカ時代の建造物、上部は西洋人によって建てられたもの)
 

インカ帝国の繁栄時は北はエクアドールから、南はアルゼンチンまでを支配下におさめる大帝国。街道を整備し、人・物の交流を促すととも、強制的な移住政策を実施。異なった習慣や言語を持つ人々が入り混じった集団を築く事により、ケチュア語の共通言語化を計り支配を強固なものにしたとの事。
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 (パズルのように見事に嵌った6つの角を持つ石。驚く事にこれらの石の奥行きは1m以上もあるとの事)


あっという間に数日が過ぎ、漸く待ち望んだ出発の日。列車にて
88キロ地点まで移動。ここから23日の行程が始まります。最近では、82キロ地点から出発して34日が一般的との事ですが、当時は23日あるいは、一週間以上掛けての二つのルートでした。
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(出発地点付近の景色)

雨の少ない冬の季節。出発当日は晴天に恵まれ幸先の良いスタート。メンバーは、エクアドール国境から行動をともにしているミルシャ、クスコで知り合ったドイツ人
2名、現地人ガイドが一名。更にポーターを雇う義務があり2名が同行。
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(Runquaraqay ルンクアラカイと呼ばれる遺跡)

トレイルの至る所に、当時の面影を残す遺跡や、日本の昔話に出てくるような山間の村が点在。水や電気も通わないこれらの村で、多くの人たちはインカの時代とさして変わらぬ生活をしているのだろうと、悠久の昔に思いを馳せながら歩き続けます。
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(途中にある村。日本の昔話そのまま。多くは今でも自給自足の生活を営む)

踏み固められて作られた道が山道を進むに従って、何時しか石畳の道に変っていきます。これらが、いにしえのインカの民が作り、数百年にわたって歩き続けられてきた道だと思うと、コロンビアやエクアドールの大学で多少なりとも南米の歴史を勉強した直後だけに、とても感慨深いものがあります。
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(途中からトレイルは石畳に変わる)


インカの民に思いを馳せて歩いているうちに数時間があっという間に過ぎ、疲れを感じる間もなく一泊目のキャンプ地に到着。おそらく初日の距離は
10km程度。全長はおよそ30kmと言うところでしょうか。昔の記憶と言うのは不思議なもので、全体がボーとしているながらも、幾つか鮮明に覚えているものがあります。今回のトレッキングでも初日に目にした遺跡は記憶にあるものの、途中のルートは裏覚え。
その一方、二日目の標高4200mの最高地点を通過する難所は鮮明に覚えています。

標高
2600mのコロンビアの首都ボゴタと、更に高い2800mに位置するエクアドールの首都キトで高度順応をしてきた体でも、流石に4200mの酸素は薄く喘ぎながら歩いている自分。海抜レベルのリマから来て、薄い酸素に慣れる間もなく4000mの高地に足を踏み入れ、辛さと不安で涙を流すボーイスカウトの少年たち。トレイルに残された自動車のタイヤの跡。これらは鮮明な記憶として今も脳裏に残っています。
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(一泊目のキャンプ地。近所の子供たちが翌朝早くからお出迎え)
 

インカトレイルは自動車が乗り入れできるような道ではなく、タイヤの跡はバイクのものかと不思議に思っていると、暫くしてその謎は解けました。小遣い稼ぎで荷物を担いでいる地元の子供の多くは、使い古しのタイヤに鼻緒をつけた、ビーチサンダルの様な履物を使っており、自動車のタイヤの跡はそれによるもの。タイヤの横の部分も使っているので、時にはメーカー名も残っています。一番良く目にしたのはピレリー。全く妙な事が記憶に残っているものです。
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(芸術作品のような美しいWiñaywaynaウィニャイワイナ遺跡。ひな壇は段々畑として利用されていたとの事)

二日目も途中には数多く遺跡が点在。その中でも最も美しく一番印象に残っているのがウィニャイワイナ遺跡。アップダウンを繰り返し、4200mの難所を切り抜けると、そこから先はダラダラとした下りで
2日目のキャンプ地到着と思いきや、その日は、キャンプではなく、山小屋のような施設に宿泊。
 

翌日は、朝早く起きてマチュピチュに向けて出発。歩くことおそらく2~3km、坂を上りきって一気に視界が開けたかと思うと、ポスターに出てくるマチュピチュの感動の景観。これは、電車やバスで訪れた人には味わうことの出来無い、自らの足で歩いて辿り着いた者だけの特権。絶景に感無量!!!
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(頂を登りきると、最初に視界に飛び込むのはこの絶景)

通常の観光客は、列車で近郊の駅へ乗り入れ、その後バスでワインディングロードを上ってきます。一方、ハイカーは山越えで歩いてくるため、最初に見る光景が正に、数少ない自然・文化複合世界遺産のマチュピチュ遺跡を見下ろす絶景。これぞ、インカトレイルの醍醐味。更に観光客はほぼゼロ。多くの観光客は朝一番のクスコ発の列車で来るため、到着まではかなり余裕があり、暫くはマチュピチュを独り占め状態。
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同行したガイドの説明を聞きながら遺跡内の各所を廻り、写真でしか見たことの無かった遺跡に立ち、山間を吹きぬける風を感じ、数百年の時を経た遺跡を自らの手で触れ、五感を研ぎ澄ませて、そこにある全てを堪能。その後、マチュピチュ遺跡の後方にそそり立つ岩山、ワイナピチュへ。頂までの道のりは一部鎖場もありますが、インデヘナの鼻の部分と呼ばれる山頂まで上ることができます。
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(インディヘナの横顔と言われるワイナピチュ。これで、ちょっとイメージし易くなりますか?)
 

観光客の姿が多くなる頃には、思う存分マチュピチュを堪能し終わって、一路下界へ。遺跡を下るとそこは、アグアス・カリエンテス(温水を意味するスペイン語)という町、名前のとおり温泉があり、旅の疲れを癒すにはもって来い。実際には温泉というよりも濁った水の温水プール。
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(かなりイケていない濁った温水のプール)

効能のほどは未知数ではありますが、温泉に浸かってノンビリした後は、列車で一路クスコへと。
1等客室の観光客を横目に、3等車に乗り込み・・・バックパッカーはあくまでも節約がクール。
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(ボロボロの車両。日本の通勤ラッシュにも負けない混雑) 
 

クスコに戻った後は再度、高山列車に乗って一路南へ、チチカカ湖を経てボリビアへと続きます。

チチカカ湖で暮す民の様子はこちら
http://nick-d.blog.jp/archives/13584924.html

 
 

ワンポイント・アドヴァイス

1.ベストシーズン
南半球に位置するペルーは日本の夏の時期が冬となり、雨の少ない乾季。特に6月~8月あたりは天気が安定しておりお勧め。私自身も6月から7月とペルーで過ごし、8月はボリビアの高地にいましたが、その間に雨が降った記憶は殆ど無し。遺跡めぐりなどアウトドアでの行動が主となりますので、雨季は避けたいところ。マチュピチュは2400m程度の標高ですが、本文でも触れたように、周辺は3000m超えの高地でかなり冷え込みますので、ダウンのような軽量で保温性の高いものを用意するのがお勧め。あるいは、現地でアルパカのセーターを買っても良し。

  

2.高山病対策

高山病の予防は何といっても時間を掛けた高度順応。飛行機よりも陸路で徐々に高度を上げて慣らすことが理想ですが、スケジュール上なかなかそうも行きません。ペルーの高地ではコカインの原材料となるコカの葉で作ったコカ茶あり、これが高山病に良く効きます。多くのホテルではティーバッグのコカ茶が部屋に用意されています。当然、ペルーでは合法ですが、他国への持ち込みは要注意。コカ茶を飲んでも治まらない様なひどい頭痛や吐き気の時は、酸素ボンベが有効。中級以上のホテルであれば、殆どのホテルで常備しています。


3.知る人ぞ知るグルメ国

ペルーは知る人ぞ知るグルメ大国。特にセビチェを始め、シーフードは絶品。美味しい物には事欠きません。南極からの寒流が流れ込む海で取れる海産物を始め、アンデス高地で採れる様々な陸の幸、更にはアマゾンジャングルのフルーツなど。国土の多様性が食材の豊かさ、更には食文化の高さを作ったようです。バックパッカーの時は低予算旅行のため、あまり美味しいものを食べた記憶はありませんが、その後、社会人になってから幾度と無くペルー訪問の機会がありましたが、その都度、他では食べられない美味を堪能しました。ペルーを訪れる際には古代遺跡とあわせて、少し食費予算を多めに準備して、ご当地グルメを思う存分楽しむこ事をお勧めします。

By Nick D